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「正しさ」を包むものは何か?

僕らは「正しさ」を大事にし、判断基準に「正しさ」を置くことも多い。

 

・日常生活において、周りに迷惑をかけてはいけない

・親として、子どもを虐待してはいけない

・仕事において、売上が上がるように努力すべきだ

・政治家は、国民のために努力すべきだ

といった風にだ。

 

「正しさ」は無条件に肯定されやすい。しかし、実際は「正しさ」は立場によって異なるし、「正しさ」を理解していても、ちょっとした間違いや判断ミスが、「正しさ」に大きく反する形になって表出することもある。

 

例えば、

スマホを触っていて、前にいるお年寄りに気づかず、ぶつかってしまいケガをさせてしまった。

・親としてしつけのつもりが、行き過ぎて子供が大泣きしてしまった。

・これぐらいいけるだろうと軽く考えたクレーム対応が炎上してしまい、会社に大損害を与えてしまった。

・政治家が立案した政策が、準備不足で上手くいかず、結果として国民の困難さを助長する結果となった

などである。

 

「正しさ」を軸にとれば、全て糾弾されることかもしれない。事実、どの事例にも過失がある。取り返しのつかないこともあるだろうし、本人もその過失に気づいているケースもあるだろう。

 

ここでは、過失を犯した本人に焦点を当てるのではなく、周囲に焦点を当ててみたいと思う。こういった場合、周囲はどんな対応を取るだろうか。

「正しさ」を元に攻め立てるだろうか。それとも、「正しさ」を理解しながらまあそういこともある、という風に接するだろうか?

 

「正しさ」を「愛情」で包もうとする人

「正しさ」を「権力や立場」で包もうとする人

「正しさ」を「怒りや攻撃性」で包もうとする人

「正しさ」を「自己顕示」で包もうとする人

「正しさ」を「集団性」で包もうとする人

「正しさ」を「改善や仕組み」で包もうとする人

 

包み方は様々であり、時と場合にもよるので、一つの答えはない。ただ個人的には、その時の包み方をみることで、その人の人格やスタンスが明確になりやすいように感じている。

 

気を付けたいのは、その結果である。包み方によって、ひょっとしたら相手の行動は望まない結果になる可能性がある。

・会社の損失に対して、「正しさ」を「上司の権力や立場」で包むと、損失を出した社員は、損失を隠ぺいするかもしれない。

 ・虐待をする親に対して、「正しさ」を「世間の集団が持つ怒りや攻撃性」で包んだ場合、親は、虐待の事実を隠ぺいするかもしれない。

・他人の至らない点に対して、「正しさ」を「自己顕示」で包んだらどうなるだろうか?自己顕示で包んだ人は、正しくても信頼されにくいし、相手は、より反発するだけで、改善につながらないかもしれない。

 

つまり、正しさ自体が大切なのではなく、結果がどうなるか、どうやったらよい結果が生まれやすいのか、という視点を持つのが大切ではないかと思う。

 

最近の世間の風潮をみると、正しさが行き過ぎて、相手を追い詰めすぎることも多いように感じる。正しさ自体の議論も大事だと思うが、より良い結果につなげるために、「正しさをどう包むのか?」といった包み方への議論もあっても良いのではないかと思う。